これまでの私の話をしてみよう
今日はこれまでの私の足取りについての話をしてみよう。いつものブログとは文体が異なるが、それは自分自身の話をするので少し気恥ずかしい思いがあるためなのでご容赦いただきたい。
どうして僧侶になったのか。どうして住職になったのか。よく訊ねられる。「だって、お寺に生まれちゃったんだもん」という話は以前のブログで話したが、お寺に生まれた娘はお寺の奥さんとしてお寺を継ぐことはあっても、女性が住職になるのは一般的ではない。私も自分は将来お寺の奥さんになるものだと子供の頃からずっと思っていた。それなのにどうして自分が住職になろうと思ったのか、意を決して正直に言えば、なりたくてなったわけではない。私はずっと自分がお寺生まれであることをあまり好ましく思っていなかった。できれば普通の家に生まれたかった。しかし、そんな私がどうして住職になることを決めたのか、そのあたりも今回は明かしていこうと思う。
私は昭和57年8月5日、田舎の小さなお寺の一人娘として生まれた。名前は尚子(ひさこ)。このとき父は39歳で母は35歳、結婚10年目にようやく授かった一人娘だった。 幼少期は近くに住んでいた男4人兄弟の従兄弟たちと遊んでいたせいか、お人形よりもミニ四駆、おままごとよりもチャンバラで遊ぶ、女の子らしさの欠片もない子供だった。人が集まるところが大好きで、お寺に人が来ると楽しくて楽しくて、お葬式の日なんかは用がないのにフラフラとお寺のほうに遊びに行ってしまうので「お葬式の日はお寺の方には立入禁止!」と親に言われたりした。いつも可愛がってくれる檀家さん方がたくさんいてくれて、おじいちゃんおばあちゃんが何人もいるような気分だった。
おそらく4歳くらいの頃、『舎利礼文』という短いお経を覚えた私は、お盆に納骨堂へ遊びに行ってはお参りに来ている人達の隣で舎利礼文を唱え、お布施がわりのお菓子を手に帰ってきていたそうだ。この頃は、自分の家が人の多く集まるお寺であること、自分がみんながチヤホヤしてくれる『お寺の子』であることが楽しかった。
小学生になってからも、男子とばかり遊んでいた。男子とケンカしてはメガネを壊して帰ってきたりしていた。小学生の頃からのお寺での思い出といえば、お盆の時期にお寺にお参りに来る檀家さん方の接待役としてお寺にずっと座っていた。檀家さんのおじいちゃんおばあちゃんが話し掛けてくれるのは良かったが、同級生や先輩後輩などが一緒にお参りに来たときにはそこから逃げ出したい気分だった。おそらくこの頃から、自分の家は普通じゃないということを感じていた。
中学生までを地元真狩村で過ごし、高校は自宅から車で1時間半ほどのところにある札幌市の高校に進学した。そろそろ考え始めるのは自分の将来のこと。親(主に父親)には「尚子はうちの跡継ぎだから」というのは物心ついたときから耳にタコができるほど言われていた。自分がお寺を継ぐ以外の選択肢は考えられないし、考えることも許されないと思ってしまうほどに、父の言葉は私の頭に沁み込んでいた。
しかし、そのかわりに「尚子は将来、お寺の跡を継ぐけれど、それまでは好きにしていい。」と、高校も大学も就職先も好きに選ばせてくれた。今、そのことはとても感謝している。もしもレールをすべて敷かれていたら、私は反発しそのレールから飛び出してお寺には帰ってこなかっただろう。少しの猶予期間だけであるが自分の将来を自分で決める自由を得た私は、大学卒業後どんな仕事に就こうか考えてみた。「会社は数年で辞めなければならない」「地元に帰ってから生かせる職種」という条件から目標を教育業界にした。中学時代や高校時代、テスト前に友達に勉強を教えたりして「わかった!」と言ってもらえることは楽しかったし嬉しかった。人前に立ってしゃべることも大好きだ。よし、先生になろう、これなら地元に帰ってからも働けるかもしれないし、お寺で塾をやったりしてもいいな、そう思った。
高校卒業後、私は山梨県にある教員養成の大学へ進学し、小学校の教員免許を取得した。できれば数学の先生になりたかったが、進学した大学では数学の教員免許はとれなかった。しかし、小学校の教員免許を取得したものの小学校の先生にはあまり興味がなかったので、教員採用試験は受けずに学習塾の就職試験を受けることにした。
就職活動を始める少し前の大学3年生の夏、父に大腸癌が見つかった。父の癌はステージⅣで予後は悪かったが、手術をしたあとの父は抗癌剤を投与しても痩せることなく病人とは思えない様子だった。そのため父が亡くなるということは考えられなかったが、私が就職して働けるのはそう長くはないかもと感じていた。2年くらいかな?と心の片隅で決めた。
大学卒業後、私は札幌市にある学習塾に就職した。週に1~2日、小学生と中学生のクラスで算数・数学の授業をし、他の日は本社でテキストやテストを作る『編集部』にいた。会社員時代はとても楽しかった。仕事にはやりがいを感じていたし、仕事終わりや休日に仲間と遊ぶ時間も楽しかった。会社員時代はとても充実していた。
月日はあっという間に過ぎ、自ら決めていた2年のリミットはすぐに迫ってきた。2年目の冬、私は高野山大学の編入試験を家族に内緒で受験した。話せば父が入試についてくるのは明らかだったし、もしも不合格だったらとてつもなく格好悪い。だから、合格したら話そうと思っていた。入試の結果は合格だった。私は2年で会社を辞め、24歳で二度目の大学生となった。
ちなみに、このときにもまだ自分が僧侶になる予定はなかった。寺の奥さんになるとしても仏教についてや自分の宗派について何も知らないのでは良くない。それにもともと私はお寺があまり好きではない。学校の勉強でも『歴史』は大嫌いだった。その分野における知識は小学生以下だ。だから少しでも勉強してからお寺の奥さんになりたい、そんなふうに考えていただけだった。
さて、ここまで言及するのを避けてきたが、私の将来の話つまり結婚の話は家族の中でうっすらだが度々出てくることがあった。
「尚子にいいお見合い相手を探してもらっている」
という類のものだったが、私はいつもそれが嫌で仕方がなかった。
私には大学1年生のときから付き合っている人がいた。彼にはお寺の一人娘であることを話して、もし将来を考えるならば彼に僧侶になってほしいことを伝えていたが、彼はずっと首を縦に振らなかった。だから大学を卒業するとき「私達に未来はないから」と言って彼とお別れした。その後、大学時代の集まりで再会したのをきっかけにまた付き合い始めたこともあったが、その後また同じ理由で別れた。彼の他に好きな人もできたりしたが、将来のことを考えるとまた同じ思いをするのではと考えたりして、恋愛は辛いことが多かった。うら若き20代前半の期間をそんなふうに傷つきながら過ごしていたので、親や親戚に「お見合い相手を探している」と言われても、そんな話は素直に聞けなかった。
あと、もうひとつ、自分好みの人と出会えるのかというのがお見合いの不安な点だった。趣味や性格が合うかというのも重要ではあるが、お寺を作っていくときに自分の作りたいお寺像と合うか、そういうお寺づくりをしてくれる住職になってくれるか、というものもとても気になった。果たしてお見合いというのはそこまで話を突き詰めて結婚の可否を決めることができるのかという不安があったし、そこまで話を突き詰めるのはお見合いなのか寺の職員の採用試験なのかわからないな、なんて思ったりもした。今思えば人生のうち一回ぐらいお見合いなるものを経験してみてもよかったという気もするが、当時の私はとにかくお見合いを毛嫌いしていた。
状況が変わってきたのは編入した高野山大学の2年目、大学4年生になる頃で私が25歳のときだった。父の癌が見つかってから4年半、父の容態がいよいよ悪くなってきたのだった。いろいろな種類の抗癌剤を続けていたらしい父は少しずつ痩せはじめ、抗癌剤の副作用で寝込んだり入院したりすることも増えていった。肺に転移していた癌も悪さをし始め、咳き込む姿も多く見るようになった。「もってあと一年」との余命宣告もこの頃に聞いた気がする。
父が死んでしまうかもしれないということが急に現実味を帯びてきた。
父がいなくなる。住職がいなくなる。お寺はどうなるんだろう。私はどうしたらいいんだろう。
そのとき、自分の中に小さくだけど存在していたかもしれない可能性が、急に芽を出したちまちに太い幹となっていった。
「そうか、自分が僧侶になればいいんだ。」
自分がこれから先、お寺を作っていく上で一緒にいて欲しいと思ったのはやっぱり大学時代の彼=現在の夫だった。夫はもちろんお寺の生まれではないので一般的な感覚も持っている。会社で勤めていたので社会人経験もある。私よりもいろいろなことを知っていて、それでもなお向上心があり学ぶことを楽しみとしている。夫と一緒にいると私も学ぶことがたくさんある。私が励ましてほしいときには背中を押してくれて、私が間違っていたときには叱ってくれる。私にとってこの人以上の人はこの世にいない、と25歳の私は強く思った。
私も僧侶になることについて不安はあったし、嫌だという気持ちもあった。しかしそれは彼が僧侶になる不安に比べたらお寺生まれの私のほうがまだましだろうし、そんなことよりも心強いパートナーと組めることのほうが魅力的だった。
決めてからは早かった。何度か破綻になった結婚の話もまとまった。
その後、僧侶になるための四度加行(加行についてはコチラもどうぞ。加行に入る日もなかなかドラマチックと思うのでコチラも良かったら読んでみてください)を受け、僧侶となり、夫と結婚した。長かったがこれが「私が僧侶になるまで」の一部始終である。途中で二つに分けようかと思ったが、勿体ぶるほどのものではないと思い、長くて申し訳ないが一つのブログにしてしまった。我ながら読みにくく長たらしい文章だと思うが、それでも最後まで読んでくれた人の忍耐力に感謝したい。
そして、最後にちゃんと言いたい。はじめは僧侶になるのは嫌で嫌で仕方なかった私だが、今では「ありがたいご縁」だったと感じている。自分やまわりの人たちが生きていることは当たり前ではなくありがたいことなんだと日々感じさせてもらえること、自分を可愛がってくれたおじいちゃんおばあちゃんを " 私が " 送ってあげられること、僧侶になって良かったと思えることがたくさんある。
最後にちゃんと言いたい。
心から信頼できる夫、可愛い子供達、昔から可愛がってくれた檀家さん方と支えてくれれる他寺院の住職方、みなさんに囲まれて、私は今、ありがたい毎日を送らせてもらっている。
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